本日のブログのタイトルは「フレッシュマン監督」、となっております。
さて、このフレッシュマン監督とは誰なのか、皆様はご存知でしょうか。
はい、申し訳ありません。
実は、このフレッシュマン監督という方は実在いたしません。
では一体何なのかと言いますと、佐藤の手帳に書いてあった文字なのです。
当院はIMS(イムス)グループの一員でありますが、イムスグループには様々な教育システム、プログラムがありまして、その中で主に新卒の入職者を対象とした講習会に「フレッシュマンコース」というものがあります。
佐藤はこのフレッシュマンコースの講師を担当したこともあり、その時は受講生を目の前にした対面式で講義を行いましたが、今年度についてはそれが難しく、動画視聴での開催となっているのです。
先日、当院の院内においてこのコースの動画上映がありまして、その際の現地監督を担当しておりました。
ここまで書きましたら、お気付きになった方も多いかもしれません。
佐藤、自身の手帳のスケジュールに、フレッシュマンコースの監督者をする旨を書き込んだわけですが、それを簡略化して記したことから「フレッシュマン監督」が誕生したのです。
書いた瞬間は何も感じなかったのですが、いざその当日が近くなってきた際に手帳を目にして、「フレッシュマン監督って誰だ…(笑)」と自分でもおもしろくなってしまいました。
そんなわけで、せっかくですから、フレッシュマン監督とは誰なのか、どんな方なのかについて完全なる佐藤の想像(妄想)のもと、ご紹介していきたいと思います。
なお、今回はフレッシュマン監督を複数のパターンで想像するのではなく、あくまでもお一人の人物としてその経歴などを記しますので、ぜひお付き合いください。
【フレッシュマン監督】
1978年1月26日生まれ 43歳 オーストリア出身
本名はフレッシュマン・ドサンコッヒ
父は元プロサッカー選手、母は元プロスケーター、兄はプロゴルファー、妹はプロの自転車競技選手とアスリート一家として育つ。
幼い頃より父の影響でサッカーに触れる機会が多く、プロ選手になることを夢見ていた。
7歳の頃、地元のサッカークラブに入団。繊細なボールタッチと共にピッチ全体を俯瞰して捉える能力に非常に長けていたことから司令塔の役割を任される。
その後、14歳で地元プロチームであるマヤナカブルクのユースセレクションに合格し入団。
入団直後から味方を最大限に活かすパス能力を発揮し、常にトップ下でのレギュラーを任されるなど不動の司令塔として活躍していた。
19歳の時にトップチームに昇格。ポジションは幼少期から一貫して変わることなく、攻撃的なMFとして常にゴールに直結するパスを供給し続けた。
しかしながら、フレッシュマン本人は「父が屈強なDFとして活躍していたため、自分も本当は守備的なポジションを担いたかった」と後に語っている。
当時のマヤナカブルクのトップチーム監督であったシュナイダー氏は、フレッシュマン本人よりDFへの転向を申し出られたが、断固として認めなかった。
その際、本人には「もしDFに転向したとしてもこの国を代表する選手になれるだろう。しかし、今のポジションのまま努力を続ければ世界的な選手になれる。君には世界のフットボールファンを魅了する可能性がある」と、諭したという。
司令塔としてのクラブチームでの活躍が認められ、20歳にしてナショナルチームに召集される。
当時の絶対的エースであったイナッホハイムよりポジションを奪い、その後は国を代表する選手として国際試合90戦に出場。通算11ゴールをあげ、アシストは48を記録した。
クラブチームにおいても絶対的な存在として活躍し、国内リーグ3連覇や国内カップのクラブ初制覇など多くの歴史を作ることに貢献。
プロのキャリアをスタートした直後より、常にセリエAやリーガエスパニョーラなどの強豪チームより相次ぐ獲得オファーがあったものの、移籍は全て断った。
これは本人の極めて強い地元志向があったためであり、「私はこの街で生まれ、この街に育ててもらった。だからこの街のサポーターに喜んでもらうために全力を尽くす」と語っている。
順調に歩んでいたプロ選手生活であったが、28歳の時にナショナルチームとしての遠征先の試合で後方より激しいタックルを受け、左膝靭帯断裂という重傷を負った。
長期的なリハビリが余儀なくされたが、その際には地元のサポーターより多くのメッセージが届けられた。時にはリハビリ施設の外に多くのサポータが集まり、励ましの声と共にフレッシュマンのチャントを歌ったこともあったという。
翌年、復帰戦となった国内リーグ第3節においてスタメン出場し、1アシストを記録して3対2での勝利に貢献。フレッシュマンは後半17分までプレーした。
しかし、この試合の翌日、急遽開かれた記者会見の場で突然現役引退が発表された。
思うようなプレーができなくなったことを引退理由の一つとして挙げたものの、監督、コーチ、チームメイト、そしてサポーターと誰もが怪我からの完全復活を確信しており、また突然の発表であったことからもチーム、そして街全体に大きな衝撃が走った。
フレッシュマン本人は、リハビリ中よりすでに引退を視野に入れていたとされる。
「自分が納得するプレーでこの街とサポーターの皆さんを笑顔にしたい、それは幼い頃からずっと思い続けてきたことです。ただ、今では自分の理想とするプレーと実際とでは差ができてしまった。昨日の試合でそれを確信しました。100%ではない中で試合に出ても皆さんを笑顔にはできないので引退します」と記者会見の場で語り、29歳という若さでの引退が決定した。
国内リーグ270試合出場、31ゴール、アシストは152という驚異的な数字を記録し、MVPを5度受賞、アシスト王のタイトルは入団1年目より10年連続で獲得した。
その気になればより多くのゴールを量産することも可能であったと言われるが、フレッシュマン本人は「自分がゴールするよりもチームメイトにとってもらいたい。自分がサポーターに捧げるのは勝利につながるパスだ」と常に言い続けており、アシストへの強いこだわりがあったとされる。
パスの精度、強弱など自在に操り、また本来はレフティーであるが左右両足からどんな状況であっても味方に合わせた正確なボールを供給することができた。また、幼少期より備わっていたピッチを俯瞰する能力により的確なゲームメイクを可能にしていた。
チームメイトは「彼からのパスは最高のプレゼント。こちらが望む場所に期待通りのボールが来るのはもはや当たり前のことで、彼のパスに従いさえすればいつでも簡単に得点を取ることができた」と語っている。
特にリーグの得点王に7度輝いた当時のチームメイトであるネイテ・ゼカスアは、「フレッシュマンからのパスでゴールネットを揺らせなかったとすれば、それは僕の技術が未熟だからだ。彼は自らのアイディアで味方を動かし、相手チームの隙を作りだし、そして最高のパスをくれる。自分が得点王を獲得できた最大の理由は、彼とチームメイトだったからさ」と答えている。
引退後はマヤナカブルクのトップチームのコーチを2年ほど務めたが、いつかチームにもっと大きな恩返しがしたいとの理由から海外の様々なクラブを渡り歩き、指導者としての経験を積んだ。
引退からちょうど10年となる39歳でマヤナカブルクの監督に就任。クラブとしては史上最年少の監督となった。
初年度は主力選手の相次ぐ怪我の影響もありリーグ14位に終わったものの、2018シーズンは6位、2019シーズンには最終節までもつれた優勝争いの末の2位と着実にチームを進化させた。
マヤナカブルクはフレッシュマンの引退後タイトルから遠ざかっていたが、2020シーズンは序盤より首位を独走し、ついに10年振りとなる国内リーグを制覇。カップ戦でも準優勝し、フレッシュマンは最優秀監督に選出された。
監督デビューとなったシーズンについては戦力的な問題から守備的な戦術を選択せざるを得なかったが、主として超攻撃的サッカーを信条としている。
特にパスサッカーをメインとし、考え、走り、そして味方とサポーターのことを思いやるパスを出すことを重要視したチーム作りをする監督として有名。
フレッシュマン就任後はチームのパス成功率、パス回数共に飛躍的に増えており、そのサッカーを習得しようと入団する若手選手も多い。
リーグ制覇を成し遂げた際の会見では、「サッカーは11人でするスポーツだと思っている人が多いが、私は違うと考えている。サッカーとはピッチの11人とベンチにいる選手、ベンチ外の選手、チーム関係者、そして何よりこの街のサポーターと共に戦うスポーツです。よって、関わる全ての人が笑顔になれるように、その思いを込めてパスをつなぐことが何よりも大切」と述べている。
現役選手時代、そして監督としての功績を称えるべく、サポーターからの発案でクラブハウスの前の通りが「フレッシュマン通り」と名付けられた。
ピッチ全体を俯瞰して捉えることができる能力は監督になってからも発揮されており、現在のマヤナカブルク主将であるホシオキーは「監督はまるで試合中にピッチの中にいるかのように、そして上空から試合を見ているかのように全てを把握している」と語っている。
繊細なボールタッチも健在で、2019年のキャンプ中に雨の中で行われた練習試合では、フレッシュマンの足元に転がってきたボールをダイレクトで蹴り、40メートルほど離れたところにいた自チームのゴールキーパーの手元にピタリと合わせるという正確なキックを披露した。
この際、ゴールキーパーはボールをファンブルしてしまったが、これは雨でグローブが滑りやすくなっていることを気付かせるためにあえて取りにくい回転をかけて手元をめがけボールを蹴ったと言われている。(その時のゴールキーパーは新人選手であり、且つ実戦デビュー戦のため相当に緊張していたことからグローブのことを気にかける余裕がなかった)
元々サッカーを始めた頃からピッチ全体を俯瞰できていたが、8歳の頃に高熱を出し、数日間寝込んだ後に能力が大きく覚醒した。
本人曰く、夢の中で何度もサッカーをしており、早く元気になってプレイしたいと強く願っていたところ、なぜか上空からピッチを眺めているような感覚が身に付いたという。
性格は極めて温厚であり、常に親身になって指導することからも若手、ベテラン問わず選手からの信頼は厚い。
声を荒げるシーンはほとんどないため怒らない監督と言われているが、選手が無理なドリブル突破を試みた際には試合後に怒りをあらわにすることがある。
フレッシュマン語録がサポーターの間では有名。
「プロのサッカー選手とは育てるものではなく育つもの。いつか自分のような選手が出てきてくれれば個人的には嬉しいが、私がやるべきことは今ある戦力の中で勝利することです」(自身のようなパサー、司令塔を育てたいかとの記者からの質問に対して)
「そろそろ負けるのではないかと期待していた方もいるでしょう。ただ私はどんな相手、どんな試合であってもこのチームの選手と勝利を信じています」(開幕からの連勝を7に伸ばした際の記者会見での一言)
「8点も取れるなら、その半分は次の試合にとっておけばよかったと言う人もいるかもしれない。しかし、プロの世界では得点は取れる時に取れるだけ取らなければ今回と逆の結果だって十分にあり得るのです」(8対0の大差による勝利後の会見にて)
「引退したのは怪我が理由ではなく、私が納得するパフォーマンスをできなくなったから。真剣勝負の試合ではお互いに必死でしかない。それ以外に思うことはありません。それよりも、今シーズンから取り組んでいるシステムの話をしましょう」(自身の引退の理由となった怪我とその時にタックルをした選手について聞かれ)
「選手を思い、クラブを思い、サポーターを思って勝利に導くことができる監督」(理想とする監督像はとの質問に)
「あなたは毎日よく眠れていますか?もし眠れないのならば職責を全力で果たしていないからです」(優勝がかかった試合を週末に控えてよく眠れているかとの問いに)
「大事な選手が欠けるのは確かに痛い。ただし、1つのピースが欠けていても時にパズルは完成する」(チームの得点源であるダエマ・テイヌが怪我で離脱した際のミーティングで)
「ラストパスを出した者はゴールネットを揺らした者と同様に賞賛されるが、その前にはいくつものパスがつながっていることを忘れてはならない」(優勝を決めた試合後のインタビューで)
「サッカーとは楽しむもの。そしてプロである我々はサポーターを楽しませる義務がある。ただし、我々自身が楽しくなければ見ている人達を楽しませることなどできない」(今後はどんなチームにしていきたいかと聞かれて)
「無くても生きてはいける。しかし無くては生きている意味がない。そういうものです」(フレッシュマン監督にとってサッカーとはとの問いに)
と、いうことでフレッシュマン監督について完全なる佐藤のイメージ(妄想)で書き上げてみましたが、いかがでしたでしょうか。
比較的長文の多いこのブログですが、今回もまたなかなかの文章量になりました…。
お付き合いいただきました皆様、ありがとうございます。
なんとな~くの想像と雰囲気で、こういうのありそうだよなぁと思うがままに書いてきましたが、何だか本当にフレッシュマン監督という方が実在しそうに感じてきて不思議です。
もしもこのような監督がいらっしゃったとしたら、ぜひともお話しを聞いてみたいですし、応援したいなと思います。
今週もフレッシュマン監督が控えている佐藤ですが、もはや手帳の文字を見ましても講習会云々というよりは、マヤナカブルクの今シーズンが気になってしまいそうです。
フレッシュマン監督のその後、またはその他のストーリーが知りたいというリクエストがもしもありましたら、続きや違った方向からのお話しを書いてみたいと思いますので、ぜひお気軽にご一報ください。
現在の佐藤とサッカーというところでいきますと、今年については昨年同様、北海道コンサドーレ札幌の試合をスタジアムで応援するのは難しそうなことから、DAZNの年間視聴パスを購入して全試合自宅で観戦するかどうかを迷っているところです。
実際に利用されている方の声や感想などありましたら、ぜひこちらも佐藤までご連絡をお願いいたします。
それでは。